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資料紹介
教科書コレクション瞥見
白 取 道 博
  1. 本学図書館の書庫の一隅に,教科書が別置されている,請われて紹介する次第だが,全体像の掌握は私の手に余る。一瞥した限りでの断想を記すにとどまる。

  2. 件の教科書は「教科用図書」のみならず,往来物をも含んでいる。往来物は,近世,特に江戸期において,知識の獲得に対する庶民の多様な要求に呼応して発達し,寺子屋を介して普及した。近代公教育の創始とともに「教科用図書」が流通するにつれて衰微していったが,教科書なる語が「一定の学習集団で,学習用の教材として編集された図書」(『広辞苑』第4版)の意も含むとすれば,往来物も教科書には違いない。
  3. 配架は,使用された時期と学校の種類とにおおむね応じている。それに刊行事情の相違による区分が加えられている。

    いずれも帯出を禁じている点において格別の扱いになってはいるのだが,残念ながら整理・保存が行き届いているとは言い難い。作業が中断しているようにも見受けられる。一般に大学における図書館の位置や機能は研究者の利用の内実によって決まるものであろうから,所蔵の状態は図書館職員にのみ責を帰するべき事柄ではない。 

  4. 特定の体裁あるいは内容を備えた書物を偏愛する人は数多くいると思うが,教科書が好きでたまらないという人に出会うことは稀である。持ち主が学佼に籍を置く限りはかろうじて大切にされるものの,ほとんどの教科書は捨てられる運命にある。教科書は疎ましい存在なのかもしれない(本学教官にも教科書執筆者が居られるから,一般論である旨を強調しておかねばなるまい)。
  5. 厖大な刊行数にもかかわらず,自らが手にしたものさえ年を経るごとに眺めることが難しくなるという点では,すでにして教科書は稀覯書である。約7000種の存在が確認されている往来物,そして「大日本帝国」の版図において刊行された全教科目・全学年の「教科用図書」に触れることははなはだ困難なことである。教科書の“現物”は貴重である。

  6. 書架に並ぶ36冊の往来物には,古代・中世に作られた古往来は含まれていないようである。刊行年がただちにわかるもののうち,最も古いものは1695(元禄8)年の堀流水軒『商売往来』である。近世商業資本の発展・拡大とともに200版以上を重ねたという同書の最古の刊本は,石川松太郎氏の調査によれば,広島県三次市立図書館が蔵する元禄7年に上梓されたものであるらしい(『往来物の成立と展開』1988年)。商業活動に必要な語彙を収録したこの『商売往来』は,多数の亜種を輩出させたばかりでなく,他の分野の往来物の編集方法や内容にも深い影響を及ぼしたという。

  7. 「教科用図書」のうち目を引くのは,“正系”の教科書史にはあまり取り上げられない「植民地教科書」と「暫定教科書」である。分量としてはそれぞれ3冊ときわめて少ないが,これらを区分してあるのはひとつの見識である。
  8. 前者は,日本語教育振興会『初等学佼用日本語教本』巻一(1943年12月刊),辻武雄『万国地理課本』(泰東同文局,1904年3月刊/1905年5月第3版,中文),柳理『初等小学修身書』(廣学書舗,1908年5月刊/同年12月再版,ハングル)の3冊である。

    日本語教育振興会は「大束亜共栄圏」における日本語の普及を目的とした文部省および興亜院の共管団体である。『初等学校用日本語教本』は東南アジアの占領地域向けに作成されたものである。日本語教育史研究会(代去・佐藤秀夫)の労作『第二次大戦前・戦時期の日本語教育関係文献目録』(文部省科研費研究成果報告書,1993年)には,全3巻のうち巻一と巻三の所蔵者が挙がっているが,いずれも個人である。広範な調査の結果である点を考えれば,公的機関たる本学図書館の所蔵は貴重と思われる。後二者の意義の考量は残念ながらにわかにはできない。

  9. 「暫定教科書」は,GHQ/SCAPの統制の下,1946(昭和21)年度の使用を期して発行されたものである。これは,「墨ぬり教科書」として知られる“戦時教材”の隠蔽作業と新学制の実施に合わせた新たな教科書の供給作業とをつなぐ位置にある。1984年に『文部省著作戦後教科書』(大空社)として国民学校用が復刻されたが,書架にある3冊は中等学校用と師範学校用である。表題は,『暫定中等地理二』,『師範農業一綴)』,『師範農業二(第二綴)』である。全分冊が揃っているのは前一者のみであり,前・中・後の3分冊を紐で綴じてある。粗悪な用紙と奥付に見える「Approved by Ministry ofEducation」の文字は,この国の歴史を画するひとつの時代へ思いを至らせてくれる。
  10. これら3冊の「暫定教科書」は,書籍の空き函に表題を記した上で収められている。実はそこには『日本の歴史』(上・下)の名も見える。しかし,残念ながら,『くにのあゆみ』と並び格別の意義を持つこの教科書は書架には見あたらない。
     
     

  11. 「暫定教科書」に比してはるかに紙質が良く,英文表記の見えない文部省検定済教科書も整然と書架に並んでいる。白分の使っていた教科書はこれであったかなどと思いながら頁を繰っていると,淡い郷愁よりも苦い思い出を引き寄せてしまいがちであった。
  12. 大方の諸兄姉におそらく郷愁のみを呼び起こすに足るだけの教科書が本学図書館には眠っている。

<しらとり みちひろ 教育学部助教授>

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